続き

表現する、ということに何の迷いもなく邁進出来る人がいる。

そして、その制作物を表に出すことにも、何の衒いもない人。

そんな人が、とてもうらやましかった。

私は、人の評価が怖いのか。
それとも自信がないのか。

ここ数年、ずっと考えていた。

その数年間、しばらく仕事を休む様にずっと言われ続けていた。

様々な偶然が重なって、年明けからなにもしないでいたら。

脳が湧く。

頭のなかにあるものを全部出していかないと、
破裂しそうだ。

こんな感覚になったのは学生の時以来かもしれない。

自分が表現する側なのか、それとも表現者をサポートする側なのだろうか。

しばらく頭の中の大半を占めていた疑問が、ちっぽけに思えてきた。

続き

才能があるのか、はたまな無いのか、
微量だったけれどもあったものが枯渇したのか。

今、私が生業としているものは
小学生のころになりたかったもの、に近いもの。

一度、それに関連する別のことに手を出して、
そこそこの評価を得るも、ちっぽけなプライドを潰された。

些細な羽音に耳を奪われ、一度捨ててしまったこと。
今更、それを始めたいと思う自分がいる。

器用貧乏。
私を評してよく人が使う言葉。

マン・レイは多芸多才の男というタイトルで
ジャン・コクトーの写真を撮った。

全てを極めてしまえばいいのだ。

ティーポットが割れてしまって、随分経つ。

初めて自分でティーポットを買ったのは、
下北沢に昔あった、英国調の紅茶専門店

壁一面に並ぶ様々な大きさと色のポットから、
随分と悩んで選んだことを憶い出す。

陰影のある、粒子感のある藍色のポット。

いろいろな場所を覗き、探してみたのだけれども
一度として似たものを見かけたことはない。

次に買ったのは、国分寺の紅茶の店に置かれていた
ベージュのポット。

ちょっと小ぶりのサイズで、一人分の紅茶をいれるのに
丁度良いサイズだった。

最も、紅茶を必要以上に飲む私には、
少し小さめだったのだけれど。

その2つとも、今は手元に無い。

ともに、人に割られてしまった。

今、私はガラスのメジャーカップ
紅茶をいれている。

薔薇、そして薔薇が連想させるもの。
とても、女性的なもの。
昔は「薔薇が好き」と公言することができなかった。

ここ数年で、その言葉を素直に口に出せるようになった自分が居る。

一体、何故なのだろう。

得意ではないことをやり続けている理由が、どこにあるかを考え続ける。

もう、続けていけるかどうか、わからない。
好きだから、そして恵まれていたからだということはわかっている。

自らの意志で、取り巻かれている状況を変えることができる(かもしれない)
という一縷の望みに希望を繋ぐのか、繋げるのか、繋ぎたいのか。

上手く世の中を泳いで行くことができる人と、できない人。
その差はどこにあるのか、を考えながらハーブティ。
「やる気を出す」効能。
やる気を出す意味が見いだせないのだけれども。

あ、ひとつだけあった。
まわりの人に心配をかけない。
そのため。

心を砕いてくれる人が傍にいることは、とても幸せなのかも。